2017年 11月 30日
日馬富士は被害者になるかも |
新聞や雑誌の記事にも多く書かれ、
ワイドショーのコメンテーターたちも多く言ったのは
「暴力は決して許されるものではないが」。
この文脈は、
暴力を断固認めぬ思想・スタンスであることを先に示しておいて、
しかし、問題はそればかりではない、との批判が始まる前ぶれ。
実際、必ずあとに各自の提起なり警鐘なりが述べられます。
つまり、世間で公的に発言をする人々を社会の木鐸とするならば、
かなり多くの人たちが
「暴力反対」と「それ以外のこと」とを
ごく近い認識をもって捉えているのだと考えられます。
でも、いま現在は、
そういう人たちが多くいるぶん、まだマシだと思います。
私が危惧するのは、これからうんとうんと先のこと。
その未来、日馬富士は
「平成時代の角界事件簿」的な扱いで
暴力沙汰を起こした(だけの)の横綱として
後世まで汚名を語り継がれるであろうこと。
同時に、スキャンダラスに、センセーショナルに
取り上げられかねないこと。
貴ノ岩の怪我は時間が経てば治癒するでありましょう。
心にも傷を負っているのかもしれませんが、
日馬富士の「大負傷」には及びますまい。
それでも日馬富士を加害者と呼ぶのなら
この人が受けた身におぼえのない中傷や、
受けてきた人種差別だって暴力でありましょう?
私たちは、なぜそこを見ようとしないのでしょうか。
そして、被害者である貴ノ岩は、
なぜ雲隠れしているのでしょうか。
このままだと、
貴ノ岩は、日馬富士の加害者になってしまうというのに。
by re-air
| 2017-11-30 22:05